蓮見 和章

半沢直樹と校長名公表~静岡学力テスト公表問題

こんにちは、広島事務所の蓮見です。

 

さて、ドラマ「半沢直樹」、最終回が終了しましたね。

 

最後のラストはまさに「じぇじぇじぇ」な結末で賛否両論あるかと思いますが、大筋では原作と同じですし、まあ今後続編も期待できそうな感じかと思います。

 

最終回まで毎回視聴率が上がり続けたこのドラマ、最終回は「家政婦のミタ」をも超えるドラマでは今世紀一番の視聴率だったようですね。銀行内における派閥争いや出世欲のぶつかり合いの中で、「人を見る」という信念を持つ半沢が、「やられたらやり返す、倍返しだ!」と叫びながら勧善懲悪を成し遂げる様が、世知辛い世の中に受けたのでしょう。
 そして何より、個性派な役者達がドラマを際立たせたことはいうまでもありません。今回のドラマは役者の表情をアップで写すシーンが多かった為か、特に表情の演技が非常に上手い役者さんを選んだのではないかと思いますが、それがまさにくどすぎず絶妙なインパクトを与えていましたね。

 

 

 このドラマのような筋書きは、実社会ではなかなか起こりえないものですが、それでもこのドラマを観た方は、「一度はこのような生き方ができたらなあ」と思ったのではないでしょうか。私は、「銀行員は金ではなく、人を見るんだ」という頭取の言葉は、弁護士業界でも非常によく当てはまると思いました。法律トラブルの多くは、人と人とのトラブルですから、結局その人のおおよそのパーソナリティを把握できなければ事件もうまく解決できません。その意味でお金を扱う銀行員がお金でなく人を見るのと同様に、事件を扱う弁護士にも「事件ではなく、人を見るんだ」という考えを持つ必要があるのかなと考えるとなるほどと思う部分があります。

 

 しかし、この「人を見る」ということ、案外難しいですよね。

 

 先日、静岡県知事が、学力テストで成績の悪かった公立小学校の校長名を公表するとして、教育委員会ともめたというニュースがありました。結局学力テストの全国平均より高かった学校の校長の名前を公表するという形で落ち着いたようですが、それでも校長名を公表することに一体なんの意味があるのかというところで賛否両論あるように思います。現に公表されなかった校長の一人は「誠心誠意やっているのに悔しい。人格形成の大切な時期を預かる身としては教育の信頼を損ねる行為と感じる。」と声を荒げたそうです。

 

 学校名ではなく校長名を公表する。今回の学力テスト、実施要項には、学力テストの学校毎の成績の公表は禁じられています。実は学校名が公表できないから知事は校長名を公表しようとしたのではないかという憶測も流れていますが、知事はこれを否定し、「子供の能力を引き出すのは先生方の仕事、学校は変わらないが、校長・教師は異動があるのでその学校の教育水準を高めることができる」としています。まさに「学校ではなく人を見る」ということで校長名の公表に踏み切ったのです。
 
しかし、公立小学校の校長であれば、同じ学校の校長である期間は数年間でしょうし、今年赴任された校長もたくさんいるでしょうから、学力テストの成績とその校長の勉学環境改善に向けての取り組みの是非とは必ずしも一致しないと思います。
 そもそも、小学校の校長の仕事は、自分の学校の児童の平均学力を上げることなのでしょうか。もちろん、児童に勉学に対する意欲を持たせ、一定の学力を得るための教育をすることは学校の大きな職責の一つです。しかし、義務教育とは、平均点以上の点を取ることを児童に教育することではないはずですし、それよりも大切な人間教育もあることは誰も異論を挟まないはずです。そうであれば、直接の教科担当でもない校長の評価に、自校の児童の学力が全国平均と比べて良いか否かが判断要素とされるのは違和感を覚えます。このようなことをすれば、かえって、校長が自分の名誉のために学力至上主義に走ったり、学力が上がらない児童の受験を控えさせたりするなど、「部下の名誉は自分のもの、自分の失敗は部下の責任」というまさに半沢直樹の世界になってしまうのではないでしょうか。

 

 「人を見る」ってやっぱり難しいですね。

 

 私個人としては、小学校の児童には、学力テストの平均点をあげることよりも、半沢やその同期の友人達みたいに、間違っているものは間違っているという自分の信念を貫けること、そして、大事な局面で真に「人を見る」ことができる大人になるような教育をして欲しいと思います。